武術稽古法研究No.118武術稽古研究会の稽古をどう見るか(1)
1999/10/15 中島章夫
これまでの私のレポートは、何よりも自分の稽古のために考えをまとめるという性格上、表現が論文調で難解になる傾向がありました。それもこれも文章がへたなせいでしょう。今回のテーマは、「武術稽古研究会での稽古の基本を考える」というものですから、はじめて私たちの稽古に接する人にも参考になるよう、今までと打って変わって平易な表現を心掛けようと思います。
●才能がないと学べないのか
恵比寿稽古会に限らず、甲野先生の技を稽古、研究している各地のグループで稽古を始めようとする人が、まず面食らうのは「どう稽古したらいいのか分からない」ということではないでしょうか。
「この人たちは『武術稽古研究会』といっているわりには、稽古法を考えているのだろうか」
「甲野先生の本や、講座でも『基本はない』と言っていたなあ。それで上達するものだろうか」
こんな感想を持つ人も多いのではないかと思います。
実はこうした疑問は、ずいぶん以前から雑誌などで何度か辛辣な批判がありました。それらは「出来ねば無意味」と言いながら、できるのは甲野先生だけじゃないか、またできる弟子が出てきても、たまたまその人に才能があったからでなないか、というものでした。結局、基本もない、しっかりした稽古法もないのでは、才能のある人しか学べないのではないか、というのが多くの人の意見だったように思います。
このような批判には根本的な誤りがあります。少数の才能ある人がいると考えると、その陰にたくさんの才能のない人がいることになります。そして、学び方を与えられなくても学んでしまう人を才能ある人、学び方があれば学べる人を才能ない人と考えているのです。しかし物事を学ぶのに才能のない人がいるのでしょうか。
私はだれでも自分の持っている才能に応じた技を身に付けることができると考えています。それも一般的な感覚からすれば「一味違った」質の技をです。その質をどこまで深められるかは、だれにも予想できません。それを稽古半ばで(あるいは1〜2回の体験稽古で)自分と甲野先生や技のできるだれかと比較して、自分が上達しないのは稽古方法のせいだと批判することには意味がありません。それとも甲野先生の技に興味を失ったということでしょうか。もし仮に、甲野先生の技には興味はあるが、稽古方法には疑問があるというのであれば自分なりの稽古法を探るという手もあります。実際そのような目的で松聲館を離れた人もいますし、稽古会の中でいろいろな試みをしている人も少なくありません。
稽古方法を批判した彼らには自分が何を学びたいのか、という視点が欠けています。甲野先生の技を身に付けたかったのでしょうか。それともしっかりした学び方、上達法に興味があったのでしょうか。もしかすると、「できない自分」を見るのが嫌なだけだったのかもしれません、「俺はもっと才能があるはずだ」と。
彼らは甲野先生のような技を使えて、しっかりした稽古法も持つ師匠に出会えたでしょうか。それともレベルは低いが学びやすい柔術の道場に通っているのでしょうか。
この「なにを学びたいのか」ということについては、後であらためて考えることにします。
●カリキュラムは上達への道か
それでもやはり武術稽古研究会には、一般的な稽古法がないのは事実です。私も以前、甲野先生の技を理解するために、現代武道にあるようなカリキュラムを作ろうと考えていました。しかしカリキュラムが整っているそれらの武道で稽古していた人たちの中から、少しも開祖レベルの人が出てこない(ようにみえる)ことに気付いてからカリキュラムとは何なのか、考え直すことにしました。
柔道でも剣道、合気道でも、実力者といわれる人たちは稽古方法が整う前の開祖の直接の弟子たちであることが多いようです。見事な教育体系を持つ日本少林寺拳法の場合でも、創設期では「こんな時はこうする、ああする」という形で開祖・宗道臣と弟子たちの混沌とした稽古があったのです。多くの現代武道のカリキュラムの持つ矛盾は、開祖はその方法で稽古してこなかった、ということです。開祖がどれほどの名人達人であっても、後で整えられた稽古方法、カリキュラムでその技が育つ保証はありません。その稽古方法で何十年か経った時、開祖とは違う質の技が大量生産されていたとしたら、そのカリキュラムが間違っていたと考えるべきでしょう。
また、百年以上耐えぬいてきた古流の稽古方法は、優れた技を育てる力を秘めているはずです。それが現在、それほどの質の技を育てていないとするならば、それは形だけが伝わって中身の吟味がなされていないのではないか、ということが考えられます。あるいは伝わるうちに、偶然にか故意にかはわかりませんが、稽古方法が変形してしまっている可能性もあります。
結局のところ、自分が目標とする武道家・武術家、それが開祖でも師範でも先輩でもいいのですが、可能ならばその人がどのように稽古してきたかをみるのがもっとも早い上達の道なのではないでしょうか。
私たちの稽古会では幸いなことに、取って付けたような稽古のカリキュラムがありません。また甲野先生の技に自由に触れることができます。そしてなにより大事なことは、甲野先生が道場の中で常に指導ではなく「稽古」をしているということです。これらはある種の上達論からみると欠点ばかりなのですが、学びの本質からみると良いことだらけといえます。
つまり私たちは、いつでも甲野先生がどのような稽古で技を育てているかを、目の当たりにすることができるということです。物事は、それを教えようとする者からは学べず、それを行う者から学べるものです。技もその稽古方法も同じです。
●連想の材料としての感覚
ただし少なくとも「体内波」以降に稽古をはじめた人たちには、同情しないでもありません。特に最近の先生の技は、「その技を体験し、技の進展を見よ」と言われても何がどうなっているのか、どこがどう変わってきたのか捉えることも難しいと思います。それは先生の技が日常感覚から見て、あまりにも遠いところに来てしまったからです。
知らなかった物事を「分かる」あるいは「分かったつもりになれる」のは、今の自分がそれを想像できるからです。想像できるというのは、今の自分が持っている知識や感覚を材料に、その知らなかった物事へ向かって次々つなぎ合わさって認識を埋めていけるということです。これを「連想」といいます。物事が自分の日常からあまりにもかけ離れていると、この「連想」が利かないのです。そのためいきなり甲野先生の技を受け、説明を聞いてもチンプンカンプンなのです。
しばらく稽古を続けて、感覚が育ち、知識も増えてくると、連想のための材料が増えますから、先生の言っていることもなんとなく分かってくる、はずなのです。ところが甲野先生はずいぶん遠くを走っていますから、「なんとなく分かる」ことすら難しい人が多いのではないかと思います。それでも長く稽古をしている人たちの言うことぐらいは、なんとなく分かるようになるでしょう。それは稽古で感覚が育つに連れて、それを基に連想が働くからです。それはまた、その人たちの技がそのくらいの距離にあったということでしょう。
ここでひとつ押さえておいてほしいのは、稽古の目的のひとつが、
「甲野先生の技を行う上での感覚と自分との距離を埋めるための、『連想の材料としての感覚』を育てること」だということです。
ところが、このことを一応納得したとしても、急に技が育つという保証はありません。問題は「連想の材料としての感覚」を育てる稽古とはどういう稽古か、ということです。それが私たちのしている稽古そのものなのですが、このなんともとりとめのない稽古でなぜ感覚が育ち、技が育つのか、武術稽古研究会の稽古に含まれる基本とは何か、それをどう見取ればいいか、といったことをこれから考えていこうと思います。
つづく