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【武術稽古法研究025】1996年1月18日

◎「漠然とした全体」から「具体的部分」へ

●今までしたことのないことを学ぶ覚悟
 稽古をするというのは、どういうことだろうか。
 そもそも何かを学ぼうというのは、出来ないことが出来るようになりたいからだ。ところが学びはじめてみて、全く出来ない自分自身に愕然としてしまうことが往々にしてある。私は字が下手なので、これまで何度かペン習字というものに挑戦したことがあるが、いずれも添削のための課題を提出するのが嫌でやめてしまった。課題の出来があまりにもお粗末だったためである。
 下手だからこそ習おうとしているのだから、これは明らかに矛盾している。しかしこうしたことは私だけの特徴ではなく、良く聞く話だ。英語の勉強のためのホ−ムステイに、日常会話が話せるようになってから行こうとする、体を少しでも柔らかくしようと思って通い始めたヨガ教室で、自分の体があまりにもカタイからと動くのを嫌がるといった人は実際珍しくない。小学校入学前に「あいうえお」の読み書きどころか、足し算・引き算まで出来るようにしておこうとする親もこれに似ているのかもしれない。こうした親は入学後も授業の内容を先取りして学習しておき、教室での先生の質問に答えられること(これを予習だと思っている)を学習の理想だと考えているようだ。
 こうした態度の裏側には、「出来ないといっても少しは出来るだろう」という自意識(セルフイメ−ジ)と、出来る・出来ないを「他者との比較」で決めようとする態度がある。このことを自覚しておかないと、私たちはすぐに既知の技術でもって間に合わせようとする。これ自体は生きる上での知恵ということができるが、新しい技術を学ぼうとする場合は邪魔になってしまう。特に武術の場合、既知の日常的な技術の組合せではないからこそ、「術」的レベルといえるのである。
 また、甲野先生の技を学ぼうとするのに、これまで習っていた別の武道の技法をもって稽古に臨むのもよく観られることだが、これらのことはこれから学ぼうとするもの(ここでは甲野先生の技)を見る目を曇らせることになる。私たちが稽古をするに当たって最初に求められるのは「今までしたことのないことを学ぶ」という認識なのだろう。本当は「今までしたことがないから学ぶ」と考えればよいだけなのだが、自分にできない、理解できないと認めることは自意識にとって存外難しいことらしい。そのため小見出しに「覚悟」の二文字を入れたのだ。

●稽古法=技を連想できるようにする方法
 そうはいっても、甲野先生の稽古を受け始めたほとんどの人は甲野先生のやっていること、言っていることがわからないのが現実だろう。
 既知のものから未知のものへと橋渡しするのは、その人の連想力(想像力)である。つまり連想できる範囲にあるものが想像できるのである。ところが甲野先生の現在の技やその説明は、一般的な日常生活の動きから連想するにはあまりに遠い。その間を埋めていくのが「稽古法」というものだろう。しかしこれはいわゆる「カリキュラム」とは違うようなのだ。
 カリキュラムをどう定義するかにもよるだろうが、普通この言葉から思い浮かべるのは、易しい、分かりやすいところから始めて、順にこなしていけばいつの間にか高みへと導いてくれる階段のようなものだろう。しかしこれは「技の使い方」に関してはある程度あてはまるが、「技そのもの」を育てようとするときにはだめなのだ。

●自転車に乗れる・乗れないの質的な違い
 具体的には、〈井桁崩し〉〈四方輪〉〈体内波〉といった技の使い方を稽古するときには、緩めの条件から始めて次第にきつい条件にしていくことができるだろう。しかし、それらの技そのものをこれから育てようとする時に「まず易しい井桁崩しを身に付けてから、徐々に難しい井桁崩しにしていく」などということはできない。〈井桁崩し〉そのものがある一定の動きの質的転換を意味するからだ。
 わかりやすい例えで言うと、動きが質的に転換するというのは、自転車に乗れない人が乗れるようになるのと似ている。これは甲野先生が井桁以前に技について言った例えだが、現在でも通用すると思う。確かに「もう少しで乗れそうな人」と「よろよろして、すぐ足をついてしまうが乗れた人」の間には明らかな質的転換がある。「乗れる・乗れない」には「易しい乗れ方・難しい乗れ方」はない。乗れるようになって初めて「易しい走り方・難しい走り方=日常的な走らせ方とレ−スなどに要求される高度な運転技術」が成り立つのだ。そして「乗れるようになる→走り方を追求する」過程を何度か繰り返しながら質を高めているのが、甲野先生の現在であろう。うまい例えではないが、二輪車、一輪車、そして綱渡りの一輪車へと乗り物を乗り換えるたびに「乗れるようになる→高度な走り方の追究」の過程を経るのに似ているといえる。

●漠然とした全体を掴む
 さて、私たちにとっての最初の自転車は〈井桁崩し〉であり、稽古の最初の目的はその術理をわが身に発見することである。別な言い方をすると、「回さない体さばき」の感覚と意味を見つけることである。そのためその感覚と意味を見出すまでは、見かけ上は様々な技の稽古をしているように見えてもその技は「出来なくて当たり前」なのだ。この段階で育つものを私は〈武術的身体感覚〉と呼ぶ(もっとも以後もずっと育ち続けていくものだとは思うが)。この〈武術的身体感覚〉を育てるのに、先ほど述べたように順にこなしていけばいつの間にか高みへと導いてくれる階段のようなカリキュラムはないし、それを作ることが有効だとも思わない。そのようなカリキュラムが必要となるのはもっと先になってからの話である。
 この段階で必要なのは甲野先生が私たちに技として提示する〈武術的身体感覚〉を「漠然とした全体として」掴むことなのだ。
 先生にとっては具体的な感覚であるため、その説明は足のちょっとした動き、胸や背中の降り方、仙椎のわずかなずらしなどといった細部にわたる。しかしそれらの感覚・動きを追うことは初期の段階では役に立たない、というよりこの段階では役に立てられないのである。といって、それを無視して良いわけではなく、むしろそれらの部分を含めた先生の動きの全体を「漠然と」捉えることに稽古の意味がある。私が、初心の人に甲野先生の技をなるべくたくさん受けるように勧めるのもそのためだ。そして会員同士での稽古でも「だいたいこんな感じだった、こんな雰囲気だった」といった、「漠然とした全体」の再現を目ざすのである。稽古を続けていると技に対する感受性も育っていき、漠然としていたものが輪郭をとり始める。そして大まかな全体も少しずつ割れてくるのである。つまり少しずつ部分に注目することが出来るようになり、具体的な検討に値するものとなってくる。

●「漠然とした全体」から「具体的部分」へ
 このような技へのアプロ−チのしかたは、部分を積み上げて全体に至ろうとするカリキュラムとは逆に、全体から部分に至ろうとするものである。そしてこの「漠然とした全体」は個人の連想力(想像力)を越えていても体感として受け止めることができるものと考える。事実私たちはそのように日本語を身に付けてきたのであり、人は自国の文化を漠然とした全体から具体的な部分へ、そして具体的な部分から具体的な全体へと向かって学んでいくからである。
 以上


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