◎接触時間・技の変化・術理の質的転換
前回の武術稽古法研究「グレイシ−柔術になぜ投げ技がないのか」は、時間に追われて書いたため、文自体も、論旨も継ぎはぎになってしまった。最初に少しまとめておこう。
- 私の考える武術の理想形は、相手が触れてきた瞬間に相手が潰されている、あるいは投げ飛ばされているものだ。
- なぜなら、相手との接触時間が長いと、必ず体力が問題となってくるからだ。
- グレイシ−柔術は、相手との密着を基本とするため、どうしても体力やスタミナの問題が出てくる。
- グレイシ−の技の発展は投げ技を採用しなかったためである。
- 投げ技を採用しなかったのは、投げ技を「なんでもあり」で通用させるほどに仕上げるのが困難だったためだと思われる。
- 投げ技は「教え難い・習い難い・使い難い」技だということだ。
- それだけに「使えるほどに」育った投げ技は有効となる。
- 「使える投げ技」は接触時間が短くなくてはならない。
- 「接触時間が短い=体力の省エネルギ−化」であるから、1対多数の闘 いが可能となる。
ということが、実は言いたかったのだ。もちろんこれらは理屈の話であって、わたしがこうしたことをできるということではない。
●私の失敗
投げと接触時間の問題を考えるきっかけとなったのは、ちょっとした失敗からだった。
武術と関係のない集まりでも、プロレスを含めた格闘技に関心のある人は多い。そういう人たちと格闘技を話題にしていて、自然に武術稽古研究会の話になる。そして「井桁」の術理を説明しながら、〈正面の斬り〉を試みたりする。そういう人たちは、過去に武道を習った経験はあってとしも、今は見るのが好きという人がほとんどだ。稽古会で稽古をしている人たちと比べれば、実にあっさりと技にかかってくれる。内心「素人には結構決まるなあ」などと不遜なことを考えていたのだった。
その時も、武道とは全く関係ないグル−プの集まりでそんな話になって、ある人に「片手持ちの沈み」をすることになった。それはまずまず上手くいってその人も私の体つきからは思いもしない「重さ」を評価してくれた。それで調子に乗った私は「座りの正面の斬り」を試みたところ、ある程度のところまで差し込んだところで「この後はどうするの?」と聞かれた後簡単に手首を逆に取られて転がされてしまった。
何回か試したがどうしてもその人の腰を崩すことができない。いろいろ話しているうちに、その人が7〜8年前までは郷里の沖縄で空手をやっていたこと、流派は聞きそびれてしまったが急所撃ちありのかなり過激な稽古をしていたこと、東京に来てから空手を続けるために2ヵ所のフルコン系道場に通ったがいずれも師範や師範代を叩きのめしてしまって追い出されてしまったこと、泥棒をボコボコにして過剰防衛になりかけたことをはじめ数々のストリ−トファイトの経験があることが分かってきた。後で考えるとその人が沖縄の人なのは知っていたのだから、そうした可能性を心得ておいてしかるべきだったのだが、その人はがっしりはしているが小柄だったし、本当に穏やかでやさしい人だったので思いも寄らないことだったのだ。
●「この後はどうするの?」「どうもしないです」
〈正面の斬り〉で腕ががっちりと組み合ってしまったとき、その人は「この後はどうするの?」と、率直にたずねた。その質問の意味は「この後どう変化して崩すのか」ということなのは明らかだ。それに対する答えは「どうもしないです」だった。私の今の実力では、少し鍛練をしている人、あるいは感覚のいい人の腰を崩すまでいかないことは分かっていたし、今またはっきりとした。だからと言って「今」相手を崩すための変化を求めることはしてはならないと思うのだ。なぜなら「井桁崩し」は相手を崩し、制するための技ではないと私は考えているからである。
●技の変化と術理の質的転換
もちろん井桁の術理自体は相手を崩し、制するための技法であり、そのこと自体に変わりはない。甲野先生の技から消えたのは〈井桁〉の初期の技の形である。〈井桁〉初期の形は、幸いなことに壮神社刊の井桁ビデオが残っているので知らない人には大いに参考になるだろう。
ここで本題からはそれるが、井桁ビデオに関して一言。このビデオは稚拙な技だと先生ご自身はおっしゃるだろうが、稽古をする我々にとっては大切な資料である。厳密に言えばこのビデオ通りの形ではないだろうが、松聲館の技法を稽古する者にとって必ず通らなくてはならない技法上の消息がここに含まれていると私は考えている。
それはともかく、ビデオに見られる〈座りの正面の斬り〉を見ても、見た目も、効果も、術理も刻々と変化発展してきているのが分かるだろう。
以前の技はなぜ消えていくのだろうか。私から見れば、その時点その時点で甲野先生の技は十分にすごいと思うのだが、先生が技を発展させていくのは「今の技術では間に合わない時がある」ことを認識しているからだろう。そして、どういう時に間に合わなかったのかを常に研究していることは周知のことである。
ここで学ぶべき点は、今の技で間に合わせようとしない、ということである。井桁以後の、「井桁崩し」「四方輪」「体内波」「体の差し替え」のどの時点をとってもそれぞれの技法の変化技(技の使用法のバリエ−ション)だけでもかなり間に合うことができたのではないかと思う。しかし甲野先生は基底の技を深めることで現在の技を克服する道を選んでいる(ちなみに先生が「松聲館では基本がどんどん変わっていく」と言う意味は、この「基底の技の術理」が発展〈質的転換〉してしまうことを指しているのではないかと考えている)。そして実際に術理の発展とともに相手との接触時間は明らかに短縮されてきている。
これが例えば「四方輪」の術理の使い方をさらに追究したとしても、それが基本的に持っている接触時間を短くすることは難しいように思うのだ。当然速くなってはいくだろうが、それは「慣れ」に伴う速さでしかない。これはこれで大切だろうが、速さの質が変わるわけではないだろう。
●グレイシ−柔術=「手持ちの技でいかに間に合わせるか」の追究
そうは言っても、ある術理を基本にした技法の変化技の追究が容易な道であるとか、質的に高くないとか単純に言うつもりはない。その追究の仕方によっては明らかに質的転換した動きを見ることはできるのであり、その代表格がグレイシ−柔術なのではないだろうか。
グレイシ−柔術は手持ちの少ない技を様々な攻撃に対して「いかに間に合うように使うか」を徹底的に追究してきた流派のように思う。そして実際に「かなり間に合う」ことを証明してみせた。グレイシ−柔術が技の使い方(闘い方)に優れているというのは、アルティメット大会でその姿を表したグレイシ−柔術に追随したいくつかのグル−プや個人が、彼らの持っていた技で「グレイシ−のように闘う」ことで効果を得ていることでも明らかだ。
しかしそれらの人々はおそらく(もちろんトップクラス同士の闘いで)当分グレイシ−柔術には勝てないだろう。なぜなら、いかにグレイシ−が「使い方」を追究したといっても、使う「技」そのものの深みが追随派とは違うからだ。追いつくにはやはりそれなりの歴史を経なければならないだろう。
●甲野先生の求めるもの・会員の求めるもの
しかし先生としては「かなり間に合う」では納得することができないのだろう。言ってみれば「どうしても間に合ってしまう」技法を追究しているのではないかと思うのだ。つまり「人間である以上どうしても逃れられない」という性質の技である。だからこそ「技の使い方の追究」ではなく、「術理そのものの変化発展(=動きの質的転換)」を松聲館の歴史のはじめから求めてきたのだといえる。そもそもそうでなければ「井桁術理」による武術の追究をすることはできなかっただろう。なぜならそのためにそれまでの松聲館の武術の一切を捨てなければならなかったのだから。
もちろん私たち会員が武術に求めるものが、甲野先生と同じである必要はないと思う。会員は武術稽古研究会の環境の中で甲野先生の技を中心に研究をしながら、それぞれ武術に求めるものを見出し追究していくことが大切なことだろう。ただ、実際の稽古という点から言えば、「今、間に合う」ための稽古をするのではなく、「いかようにも間に合う」ようになるために今の稽古があること、逆に言えば、そのような稽古をしているかどうかを頭の片隅に置いた稽古をすることは「より良い稽古環境」のために必要なことだと思うのだ。
以上