◎グレイシ−柔術になぜ投げ技がないのか
●個別の技法を、技法の流れで考える
前回「内観的身体」について思うところを書いたが、その後、ある人から「内観的身体は『身の釣り合い』からの流れで考えなくてはならないのではないか」と言われて、技を「過程」として捉えることの重要性を改めて感じた。
武術稽古研究会で「内観的身体」という場合、「内観的身体とは何か」に捕らわれると思わぬ袋小路に入ってしまいかねない。例えば「合気道は気の武道」だからと、太極拳・気功や手のひら療法などの「気」の研究をしてみても、容易に合気道の「気」に迫れるわけではないだろう。それは「気」という言葉が同じだから、その実体も同じだという勝手な思い込みでしかない。やはり合気道の「気」は合気道の技を通して解明されなくてはならないだろう。
同様に「内観的身体」も「身の釣り合い」との関連を抜きに語ると、松聲館の技法としての「内観的身体とは何か」が曖昧になってしまうだろう。内観的身体が「内観的な現実」であるかどうかは別として、「身の釣り合い」という術理との関連で追究しなくてはならなかったのだ。
●空手だって触れなくてはならない
私は、『虹を呼ぶ拳』、『空手バカ一代』といった、言わば「梶原伝・大山空手」世代なのだが、漫画の中で大山倍達が柔道家との闘いについて「柔道は触れてから始まるが、空手は触れた時には終わっているのである」と空手の優位性を語っているところがある。その時、高校生であった私は「それでも空手は触れなくてはならない。空手の突きや蹴りが触れた途端に制するような武道があるのではないか」と夢想したものだった。
と言うのも体も気も小さい私は、到底「男は力じゃ、強さは体重じゃ」という「梶原伝・極真的男の世界」に共感できるはずはなく、何かしら反発のようなものがあったのかもしれない。
別段、「相手が触れてきた途端、終わっている武道」の幻想を甲野先生に見て武術稽古研究会に入門したわけではなく、最近の先生の技、「身の釣り合い」からの展開、を体験して高校時代の夢想を思い出したのだ。
●「投げ」を捨てたグレイシ−柔術
グレイシ−柔術は、前田光世がおそらく伝えたであろう「投げ」を見事に捨て去ることで、崩しと寝技をより実践的に発展させたように見える。柔道は柔術という大木から枝分かれしたものだが、寝技はその中の一つの枝でしかない。グレイシ−柔術はその枝をとことん追究することで大輪の花を咲かせたと言える。
甲野先生は「柔術の本領は投げにある」と言う。投げ技なしには1対多数の闘いは不可能なのだ、と。グレイシ−柔術は投げ技を、寝技につなげるための崩し技に矮小化したために1対1の闘いを想定するしかなかったのだろう。そして彼らの寝技が見事であるほどに、「何でもあり」の闘いの中で通用する「投げ技」を身に付けることがいかに困難なことかが逆に分かる結果となった。
投げ技は、なぜ姿を消したのか。上半身裸の競技ならいざ知らず、彼らは道衣を着て稽古も試合もするのだから、柔道の投げが消える必然性はない。「何でもあり」を想定した稽古の中で投げ技は容易に使える技ではなかったのかもしれない。あるいは短期間で有効な技を教える必要から、前田光世が投げ技を教えなかったのかもしれない。いずれにしても投げ技というものが「教え難い・習い難い・使い難い」技だということである。
柔道の投げ技でさえ「何でもあり」の中ではこうなのだ。まして、合気道や少林寺拳法の演武のあざやかな投げ技を実戦で使う難しさは推して知るべし、であろう(「使えない」と言っているのではなく、あざやかに使うのは大変だ、と言うことである)。もつれた時には当て身を入れる、あるいは始めから当て身が入っていることを前提とすると、投げ技そのものの質を深めることにブレ−キを掛けることになるような気もする。
●接触時間の短さ=体力の省エネルギ−化
投げ技の質を見るのに、相手との接触時間の長さで見るのも一つの方法ではないかと思う。投げ技がないため、密着して時間をかけてチャンスを待つグレイシ−の取り口は、ある程度のパワ−とスタミナを前提としている。それに相手が少し技術のある人だと長期戦にならざるを得ないようなのだ。もちろん普通の人とは質的に違う体の使い方をしているのかもしれないが、それでも密着時間が長ければ長いほど体力勝負になる。もし、体力のない者が有効にその少ない体力を使うには、相手との密着時間(接触時間)がなるべく少ない技でなくてはならないだろう。
井桁以降の技を「接触時間をいかに短くするか=体力の省エネルギ−化」という流れで見ることで、それぞれの技の関連と松聲館の技法の特徴をより明確にすることができるのではないかと考えている。
以上