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【武術稽古法研究020】1995年8月15日

◎〈体の差しかえ〉と支点の二重構造性の克服

●新たな〈水鳥の足〉の復権
 8月11日(金)の池袋コミュニティカレッジの教室に遅れて入っていくと、松聲館の会員のYさんが「まさに『水鳥の足の復権』という感じですよ」と耳打ちをした。何の事かと思っていると、先生は〈体の差しかえ〉という言葉で盛んに技の説明をされている。  「身の釣り合い」からの展開であるその技は、体の左右が襖の戸が引き違うように同時に入れ替わることで一瞬にして体の重心を消してしまうものであった。
 これを読んでいる皆さんは(おそらく)今日の稽古でその技を体験し、説明を受けていることと思うが、池袋で技を受けた時点では、今まで以上に柔らかく、受け手の内部につかえた感じを残さないものであり、こちらの体がすとんと落とし穴に気持ちよく吸い込まれていくといったような印象であった。体の左右が同時に入れ代わるこの体裁きをYさんが〈水鳥の足〉と比較するのもうなずける。事実このとき、甲野先生も「水鳥」との比較をしている。

・「水鳥」の発見当時は「ついている杖の先が氷の上をツルツルと滑っているようなもの」と表現したが、〈体の差しかえ〉は杖そのものが無くなってしまう。
・「水鳥」は結局は足を回して使うため、いくら足もとの支点を消そうとしても上体の質量はそのまま相手への手がかりとして残ってしまう。

 「水鳥」の場合は相手の支えになりながら、その足もとを突然不確かなものにすることで相手を崩す。〈体の差しかえ〉では相手にとって先生の体重(あるいは質量)が0〈ゼロ〉になってしまうため、相手は完全に支えを失ってしまうのである。
 それではなぜ体重(質量)0〈ゼロ〉になるのかというと、完全に支点を消すからである。目の前に確かにいるのに、まさに手がかりが消えるのである。しかし井桁以降ずっと支点を消す動きを目指していたはずであり、それなりの成果を重ねていたはずである。先月行った「身の釣り合い」や「剣を近く、身を遠く」も支点0〈ゼロ〉を目指してのことだったはずである。何が違うのだろうか。

●人間の支点の二重構造性
 Yさんに「水鳥の復権」と言われて、慌てて自分の書いた稽古法研究の『〈水鳥の足〉の復権(?)で考えたこと』(武術稽古法研究007)を読み直してみた。その中で次のような部分がある。

 「もともと「支点の消滅による移動」を身上とする〈水鳥の足〉は「復権」どころか、支点をつくらない〈井桁崩し〉やその発展である〈四方輪〉を上部構造に得て、ますますその真価を発揮していたわけである。」

 つまり「水鳥」にしても「腰のリクライニング」にしても、支点を消していく上部構造と、それを支えるために支点とならざるを得ない下部構造(足もと)をどう処理するかということだったのである。先月の「身の釣り合い」においても「釣り合いをとる」ことで相手への寄りかかりにより出来る支点を消すという上部構造と、その釣り合いを壊さずに体を移動させるための膝の急激な落下と体の開きという下部構造という二重構造があったといえる。これは「人間の支点には二重構造性がある」ということである。
 このように考えてみると井桁以降の「支点そのものを無くす」技法の体系を、上部構造の支点の処理(井桁崩し、四方輪など)と下部構造の支点の処理(水鳥の足、腰のリクライニング、一足立ちなど)とに別けて考えることが私たちが稽古をする上で必要となるだろう。

●「支点」の二面性=「居着き」と「拍子」
 「支点・ヒンジ運動」を突き詰めていくと「居着き」と「拍子」の問題に行き当たる。「支点」を「体の部分的固着」と捉えれば「居着き」であり、「動きの部分的遅れ」と捉えると「拍子」となる。
 ところが人が動く上で先ほど言った「支点の二重構造性」がある限り、少なくとも「二拍子」になることが避けられない。必ず下部構造の支点の処理が後になるからである。つまり「支点を消した上部構造を、いかに下部構造が支点を消して運ぶか」という動きをしている以上、上下の境(具体的には腰もしくは股関節)に残る支点をどう処理するかの問題が残ることになる。その一つの答えが「一足立ち」であったと考えられる。

●体を縦に割る
 「一足立ち」の重要性は、股関節の溶かし込みによりそこに残るわずかなねじれを無くすことで、結果的に上体と下体に分かれやすい体を左右または前後に縦割りにしたことだろう。その後の展開の「二足立ちによる一足立ち効果」も「身の釣り合い」も、甲野先生の構えを見た人は「上体と下体が非常にしっかりと繋がっている」という印象を受けるだろう。先生の内部感覚からすれば「しっかり」という表現は適当ではないかもしれないが、外からはそう見える。その印象は今回の〈体の差しかえ〉の構えにおいても同様だろう。しかし根本的に違う(と思われる)点は、「身の釣り合い」までは繋がった上下を「動かすための足捌き」が独立していたが、現在は「縦割りにした身体そのものを捌く」ことで動いている点にある。

●二重構造性の克服=技の大きな質的転換
 今回の〈体の差しかえ〉が、相手を制するための技(上部構造)とそれを相手まで運ぶための技(下部構造)という二重構造性を克服するものではないかと思ったのは、池袋コミュニティカレッジでの先生の次の言葉からだった。

  「襖が引き違うように体の左右が入れ代わるのですが、左右の移動ではなく、むしろ上下に移動するつもりで動くのです。」

 左右が入れ代わるのに上下に動くとは! これまた、謎の言葉である。その技を体験して、これは頭から足先までを縦に割って動くことを示しているのではないかと感じたわけだ。もちろん、このレポ−トもたった一度の体験で書いたもので、想像の域をでない。ただ今回の先生の技も、決して遠いところにある不思議な技ではなく、また突如「天啓」として先生に与えられたわけでもなく、稽古の必然として現れたものとして捉えることが大切だと思う。
 また、先生のように上体下体の溶かし込みをして一体化した(別の言い方をすれば細かく割れた)身体の持ち主でさえ、いざ動こうとすると「足捌き」という下部構造から逃れられなかったことは、人間にとって「独立した下部構造を使って移動する」ということが、いかに根深い必然性を持っているかということを示している。
 逆に「技を掛けるということが動く(移動する)ことと一体である」という動きが、技の質を飛躍的に高める一線と言えるのかもしれない。今回の甲野先生の技の展開は、その高みへと一歩を踏み出したものと私は感じている。
 以上


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