[PR]血液型生年月日で運命診断:無料お試しも本格鑑定!

【武術稽古法研究019】1995年7月21日

◎武術稽古研究会にカリキュラムはあるか

 カリキュラムというのは「教科課程」ということで科目を「教える順序」あるいは「教える方法」のことだろう。つまりカリキュラムが問題になるのはそのことを「教えることができる」と考えている人にとって、ということになる。またこうした人はものごとを「教わることができる」とも考えるので「優れたカリキュラムがあれば教わることができる」とか「容易に教わることができるのは優れたカリキュラムがあるからだ」とか考えやすい。しかし一見「教える・教わる」関係に見えることの基本には「教わる側」の「学ぼうとする意欲」がなくてはならない。その場合、学びたいものの全体が提示され続けることで「学びたい側」が勝手に学んでいくのではないだろうか。
 ラジオである落語家が修行時代の話をしていた。落語家の噺の教授法は今でも師匠が同じ噺を三回語って聞かせて終わりらしい。もちろん現在ではテ−プレコ−ダ−や落後のカセット、CDもあるからいくらでも覚える機会があるようだが、それでも三回聞かせるやり方が基本なのだという。一回目を普通の早さで、二回目をゆっくり区切りながら、三回目はまた普通の早さで語っておしまい。
 「それでよく憶えられますねえ。落語家の皆さんは頭いいんですねえ。」とアナウンサ−が言うと、その落語家は「あなた方は別に落語を憶えたいわけじゃないから憶えられないんですよ。あたしたちは憶えたくってしょうがないんだからそれで憶えられるんです。」と言っていた。
 この話は「学ぶ」ということの意味をよく表していると思う。学びたい人間にとっては傍から見ると実に不合理に見える環境の中でも学んでいくし、逆に合理的な学習方法が完備していてもそれが学びたいことでなければ身にはつかないだろう。
 このように、カリキュラムを含めたあらゆる「学びの方法」というものは、「学ぶ側の主体的な意欲」を前提にしている。学校教育が基本的に失敗するのは、生徒たちが主体的に学校での学びを選んだのではないという事実を認識しないからである。それでも子供たちに教育が必要であると考えるなら、学ぶ対象へ興味を持たせることへ応分の時間をかけなければならない。しかし「学校に行かされている」生徒たちに、授業に対して主体的な興味を持たせる努力をしていては「学力」を促成することはできない。そのためにほとんどの学校教育は「競争による賞罰」を好んで使う。これは軍隊も同じで、徴兵した民間人を短期間に「兵士」に仕上げるためには「競争による賞罰」で人為的に意欲を作り出すしかない。しかしこれが真の軍人(これがいいことかどうかは別として)を育てることではないのと同様に、学校も真の学ぶ人を育てることはない。
 とは言っても人間は基本的に「学びたがり」なのであり、子供たちは学校という環境のなかでも、学校以外の場所においても主体的に学び続けているので「学ぶ意欲」は自然に育つと言えないことはない。ただその学ぼうとする対象が学科でない時、親や教師などの権威者がそれを「学力=学ぶ力」と認知するかどうかの影響は大きい。
 また、賞罰に関しては、文部省の、できることもできないこともその子の個性と捉えていく、その実態はできないことを教師の責任とは捉えない「新学力観」の影響からか、「できることをほめて、できないことを叱らない」というような傾向が見られる。が、これとても「賞罰」である事に変わりはない。できないことに直接罰を与えることをしなくても、「ほめない」ことが罰として機能するのである。これでは「権威者にほめられる」ために学ぶ人間が育つことになる。「ほめる教育」もまた「学ぶ主体の意欲」を育てることとは無縁なのである。
 さて、学校とは違って私たちが武道、茶道、華道、舞踊、絵画などを稽古するというような場合は原則的に「自分が習いたくって」稽古を始めるだろう。つまり学ぶ側の主体的な意欲から稽古に行くわけで、行かされるのではない。ならば意欲的に稽古を進めて行けるかというとそうとは限らないのである。なぜなら意欲そのものが環境の中で変化するからだ。実際に稽古を始めてみて、そのまま意欲を維持できることもあるし、ますます高まることもあるが、意欲を無くすことも少なくない。
 基本的に「身に付けたい技術」が「身に付いてきている」ことを実感できていれば意欲は維持できるだろう。それができない場合「自分には才能がない」か「稽古方法に問題がある」と考えるのは自然なことである。
 では私たち武術稽古研究会の場合はどうだろうか。少なくとも井桁の共同開発者であるNさんレベルの人が何人もでる中で、自分が少しも上達しないのであれば「才能」も考えなくてはならないが、Nさんに続く人がなかなかでないことから、「稽古方法=カリキュラムに難あり」としても致し方ないのだろうか。
 武術稽古研究会では現実に稽古が行われている以上、なんらかの稽古方法がある。その稽古法は甲野先生のやりやすい方法であるらしく、松聲館の歴史が始まって以来一貫している。それは、恵比寿稽古会で稽古をしている皆さんには既におなじみの、最先端の技から稽古に入る方法である。
 具体的にいうと、まず甲野先生の最先端の技を何度か受ける。その後会員同士でその技を吟味するという、大変乱暴なやりかたである。しかし実際には先生の技を受けたときの「体感」を吟味する、と言うのが正しいだろう。こう言い換えてみたところで、それが一朝一夕で分かるわけのものでもない。だからこそ、甲野先生の「技」ではなく「稽古」を見学、あるいは体験した人は、そこに「カリキュラム」などといった気の利いたものを見ることはできない。「公開稽古会」故に隠しているのかと思う人もいるくらいである。
 実際に稽古をしている会員の中でカリキュラムを必要としている人がどれほどいるか分からないが、例えば前回「『批判』すること・されることの意味」でカリキュラムの発表を迫った人の考えはおそらく次のようなものである。
 「見上げるほどの崖の上に立っている甲野先生のところまで行こうとしたら階段がない。階段もないのに山の上の景色の良さだけ吹聴するのはひどいではないか。まず階段を作ってから言うべきだ。」
 つまり彼にとってのカリキュラムとは、一段一段ひたすら登っていけば山の上までいける階段のようなものなのだ。段を登る努力ならしましょう。でも階段を作ったり、道を探すのは才能のある人しかできない、と言いたいのだろう。
 しかしここで慎重に考えなくてはならないのは、誰かが作ってくれた階段を登って行ったとき、たとえ甲野先生が立っている場所にたどり着いたとしても見ている風景は別のものだということである。なぜなら甲野先生は階段を見ながら登ってきたのではないからであり、甲野先生の語る風景とは登る途中の風景を含めた山の景色だからである。私たちもまた丹念に山中の風景を眺めなくてはならない。「隠された道を見つける」が最初の稽古である。ぼんやりと道らしきものが見つかったらそれをひたすら追い続けること、道らしきものを自ら歩んで道であることを確認できる力をつけること、これが稽古の次の段階である。
 先生がたどった行程を歩きやすい道として残すことが良い指導とは限らない。ましてや登りやすいように階段をつけたり、ロ−プウエイで簡単に山の上へ行って「奥義を伝授」とはいかないのは武術だけではなくどんな技術でもそうだろう。その登るべき場所が上野の山か、高尾山か、富士山か、はたまたヒマラヤか、の違いがあるだけである。それから山頂への道は甲野先生が作ったのではなく、先生もまた隠された道を探りつつ歩いたことを忘れてはならない。武術の技も「人間という自然」から離れて勝手に創りあげることはできない。ただ甲野先生の歩いている道が、見つける人が非常に少ない道であったと言えるだろう。
 甲野先生は「道は自分で見つけよ。見つけることこそ技なのだ」と言っているように思える。しかし「道は勝手に見つけよ」と言っているのではない。その道を行く先達として先生が見た風景を語ってくれている。私たちはその風景を追い求めることで道にたどり着けるだろう。
 しかし自分で見つけなければならないのである。それが武術稽古研究会の稽古法である。ただ、失礼を承知で言うと先生ご自身「井桁以前」は伝えようとした風景がぼんやりしていたが、「井桁以後」はかなり風景を的確に見て取れるようになったのではなかろうか。先生のたどった山中の風景を見つける人が少しづつ現れているのはそのためだろう。
 それから、失礼を重ねてしまうが、そうは言っても先生は先の風景ばかりを語り、山に分け入った当たりの風景を段々に言わなくなってしまう傾向がある。それを聞き出すのも稽古のうちと言えるだろうが、実はそれらの風景を閉じ込めているのが「型」と言われるものなのではないかと思う。私たちはいくつかの技の「型」を通して先生の歩いた道の風景を見つけることができるだろう。しかし、今はまだ「この型」と提示できないものの、その雛形となる稽古法がいくつかあることは確かだ。ただしその「型」ができたとしても、山を登りやすくする階段の一つができるわけではない。武術稽古研究会では金輪際「この道をただひたすら登っていけば考える事なく山の上に行けます」式のカリキュラムが作られることはないだろう。なぜなら、技の意味を探り、型の意味を見つけ出す過程で形成される「考える身体」こそ、武術稽古研究会の技の中核だからである。

※今回は稽古を山頂への道を見つけるのに例えた。そのため甲野先生が山頂にいるような表現になったが、先生から「やっと山に踏み入ったかどうかですよ」とその表現をたしなめられるに違いない。ただ、私のいるところからは、山の頂きに先生が立っているように見えるのであり、先生の背後にある雲の向こうにまだ山が続いているだろうが、その山がどんな山なのかは私の想像力を越えてしまう。先生のいるところが常に最前基地なのである。
 以上


本サイトの内容を、権利者に無断で複製・改変することは固く禁止いたします。

[PR]国仲涼子さんの美肌のヒミツ:蜂蜜配合の美肌スキンケア≪ハニーラボ≫