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【武術稽古法研究018】1995年6月15日

◎「批判」すること・されることの意味

 千代田武術研究会が休会することになって、恵比寿稽古会の方に稽古の体験希望者が参加する機会が多くなることと思う。また、それをきっかけに新しく稽古を始める人もいるだろう。
 甲野先生の技をとりあえず体験しにきた人はともかく、「これから稽古をしていこう」という人は武術稽古研究会の稽古にどのような感想を持つだろうか。おそらく「何を・どう稽古すればいいのか分からない」というのが正直なところではないだろうか。「まずはこの技を稽古しましょう」という感じでいくつかの「型」を示してもらえたらどれだけ取っ付き易いことか。しかし現実には「初伝の型・技」どころか、何年か稽古をしている者にとっても「何を・どのように」稽古するか、はっきりしたカリキュラムはない。この「カリキュラムのある・なし」について、いいとも悪いとも、ここでは言わないが、稽古をする側にとっては困ったことには違いない。

 「カリキュラム」に関しては、〈井桁崩し〉の頃に公開稽古会に参加した人から、ある武道雑誌を通して公に質問が出されたことがある。この頃この雑誌では〈井桁崩し〉について甲野先生のインタビュ−記事を載せていたためである。それは要するに「松聲館の武術は才能のある人だけが身に付けられるものではないのか。もし誰にでも身に付けられるというのなら、そのカリキュラムを発表せよ。」というものであった。それは決して「どんな風に稽古しているか興味があるので教えてください」といったものではなく、暗に「『井桁』がどれほど優れた技法であっても誰でもが学べるようなカリキュラムはないのだから、よほど素質のある人を除いて一般の人には役に立たない。そんな技法を称賛するより自分の今修行している技をもっと研究した方がいいのではないか。」ということだったのである。
 松聲館の技法というのは見ための近さからか、甲野先生の経歴からか、空手系の人よりも合気道のような柔術系の人たちからの関心が高いようだ。上記の雑誌もそうした系統の武道雑誌だったので、先生の発言が「部外者から自流への批判」と感じられたのかもしれない。「自流のことは自流の人たちで研究し解決するべきで、部外者の研究に寄りかかるべきではない」と上記の質問者も思ったのだろう。その言い分が間違っているとは思わないが、だからといって技の追求の過程で他流である甲野先生の技法を研究の対象としたとしても、その人たちが責められることはないだろう。要はその人が「技に何を求めているのか」の差であり、どちらがいいとか悪いとかではないのである。

●「他流の批判」ということ
 「他流の批判」ということに関しては、本人にその意図があるなしにかかわらず、誰でも自流の技の有効性を語れば必然的に起こることなのである。なぜなら先端技術というものはそれまでの技術を否定することで成立しているからである。もちろん甲野先生の場合は自流の技を批判、否定しての先端技術であるが、〈井桁崩し〉の場合甲野先生が否定したそれまでの動き(この場合は「回る・捻る動き」)が現実に多くの流派が日常的に行っている根本的な動きであったため、少なからぬ反響があったのであろう。
 〈井桁術理〉の有効性を稽古会の会員は身をもって知っているわけだが、だからといって「他流派でもこの動きを取り入れたらもっと技が効くようになる」とは言えない。それは〈井桁術理〉によって松聲館に起こったことを思い出せば容易に分かるだろう。松聲館では〈井桁〉の発見のためにそれまでの松聲館の技法が一切否定されてしまったのである。それまでの動きに付け足せるような技法、例えば〈水鳥の足〉のようなものならその武術の形態によっては取り入れることも可能かもしれない。しかし〈井桁〉のように技の全てを規定してしまうような根本の動きは、「回る・捻る動き」の上に成り立っている技の全てを否定しなくては取り入れることができない。そのため、ある体系の技から別の体系の技を批判することも、逆に取り入れることも簡単なことではないのである。
 こんな話がある。鹿島神流の国井善弥先生がある空手家の型演舞の最中に、「違う、違う!」と飛び出してきて「足はこう、手はこう」と足をソの字、手をハの字にさせたというのだ。これは国井先生の武術に対する純粋さを示してはいるが、この逸話の持つおかしさを誰もが感じることだろう。足の構えを含む体構えは別の技の体系に付け足して使うことのできる性質のものではない。つまり「足だけソの字立ちにして残りは今までの空手の形で」というわけにはいかず、全ての技の見直しが必要となりそれは「空手」とは呼ぶことのできない別の武道になる可能性がある。このことは「躰道」や「新体道」を見れば明らかだろう。国井先生はその体構えから並みの空手家以上の突きを出せたのかもしれないが、だからといって「空手という体系」にその突きを採用させるわけにはいかないということだ。逆に言うと、ムエタイの蹴り、ボクシングのパンチ、柔道の投げ、レスリングのグランド技術、柔術の固め技を足し合わせれば最強の格闘技になる、というような考えは全くの幻想であるということでもある。

●「自流の批判」ということ
 このようにある技の体系から他の体系の技、特に技の一部だけを取り出して批評するということは基本的には成立しにくいものである。技に対する批評・批判はむしろ自流の技、もしくは自分の技に対して行うものである。既に述べたように、甲野先生は他者の批判によってではなく、自らの技を批判・否定しつつ技を発展させてきた。そしてそれこそ私たちが稽古をするということなのでもある。私たちは常に自らの動きを批判的に吟味し、それを否定しつつ上達していくのである。もちろん「否定する」とはすっかりその姿を変えてしまうことを指すのではない(もちろんそういう場合もあるだろうが)。「技がうまくなる」ということ自体、現状に満足する事なく今の自分の技を否定するからこそ起こる現象なのである。このような観点から稽古を捉えることが大切だろう。

●「外部からの批判」ということ
 武術稽古研究会に限らず、自分たちに対する外部からの声というものは気になるものかもしれない。しかしその声を「感想・批評」と聞くか「批判」と聞くかは、それを発した人の意図ではなく、むしろ自分の内包する問題と共鳴するか否かではないだろうか。
 例えば甲野先生が盛んに「ナンバ」の重要性を言ったことに対して、次のような「批判」があった。それは「昔の日本人はいざ知らず、現代の日本人は上体を捻り手を振って歩くことで身体のバランスを取っている。それを無理してナンバで歩く稽古をしていると体を壊すことになるのではないか」、おおよそこのようなことであったと思う。こんなことを言われたら、会員は、少なくとも少し長く稽古をしている会員はどのような感想を持つだろう。おそらく「苦笑」するしかないのではないだろうか。
 まず最初に思うことは「これを言った人は実際に最近の松聲館の稽古を知らずに言っているな」ということだ。おそらく「ナンバ」を甲野先生の文章から、右手右足、左手左足を同時に出しながら歩いている稽古風景でも思い浮かべたのだろう。実際には先生が盛んに「ナンバ」の話をされていた頃でさえ会員は特別に「ナンバ」の練習をしていたわけではなく、ましてや最近稽古を始めた人は「ナンバ」という言葉も知らずに稽古をしている人も多いのではないか。にもかかわらず、実際の武術稽古研究会の稽古は「ナンバ」で行われているのである。しかしその動きは、一般の人の目から見ても、武術・武道的とは感じたとしても、人間の動きとして特別無理な動きとは写らないだろう。この動きは技や稽古への認識の深まりとともに日常的な動きにも忍び込んでくるが、その人が歩いる時に右手右足、左手左足を振り出しながら歩いているわけではない。そうした現実を知るものにとって、また稽古の中でその動きの必然性を感じているものにとって、上記の「ナンバ」論は「批判」となりえない。
 もうひとつの問題は「ナンバは体を壊すのでは?」という点である。人間のあらゆる行為は「健康に良いかどうか」という観点から論じることはできる。しかし、ナンバが体に良くないかどうかは知らないが、ナンバによる稽古の意義とそれが健康に良いか悪いかは別問題である。例えば、空手の巻藁突きや柔術で関節を取っての固め技の稽古を見て「その稽古法は健康に悪いから間違っている」と言われても、言われた方も困るだけだろう。もしそれが稽古への批判となりえるとしたら、稽古をする者が「健康のために」その稽古をしているときである。また指導者への批判であるとしたら、指導者が「この稽古をすると健康に良い」と言っていた場合である。しかし、武術稽古研究会の会員の場合「健康のために」稽古を始めた人はおそらくいないだろう。そうした意味でもこの「ナンバ批判」は「批判」として成立できないのである。もちろん個人的に「健康のために、武術稽古研究会で稽古をする」と考えていた人にとっては、その批判が当たっているかどうかは別として、「批判」となりえる。
 このように、外からの私たちへの批判に限らず、「批判」というものは、批判される側が持っている問題点(それが既にある問題であろうが、未だ潜在している問題であろうが)を捉えているからこそ「批判」となるのである。
 最初の「カリキュラムのあるなし」は、私たちの(いや、私の、か?)内部に抱えている問題として充分に「批判」として受け止めることのできる質問だったのである。

●「批判」をどう受け止めるか
 本来は「カリキュラム」について考えようとして書き始めたのが、テ−マからそれてしまった。最後にやっとテ−マにたどり着いたようだ。このテ−マは次回にまわすとして、今回のまとめをしておこう。
 自分のしていることに関して感想・批評・批判があったとして、それに対して自分の中に「共感」あるいは「反発」があったとき、初めて「批判」としての意味が出てくる。特に「反発=何を言ってやがんだ」と思ったときは、自分が気づかなかった問題点が浮かび上がるチャンスである。甲野先生の技法上の提案に対して「他流のことに口出すな」式の過剰な反応がしばしば見られるが、それはその人の中に問題意識があるからこそであり、それを再び封印することをしないで、己の問題として捉え直すことが大切である。そしてこのことは武術稽古研究会で稽古をする私たちにとっても大切なことだと思う。
以上


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