◎[武術的身体感覚]と[身体感覚的必然性]
●武術身体感覚と型稽古
前回の『〈一足立ち〉の経緯に学ぶ』(武術稽古法研究015)で[武術的身体感覚]について書いた。松聲館の技の多くは甲野先生のこの身体感覚のリ−ドによって生み出され発展してきたものだといえるだろうが、その技法を学ぶ私たちはこの[武術的身体感覚]をどのように捉えたらいいだろうか。
学ぶべき技が目の前にあるからといって、習えばすぐに身に付くというものでないことは今更言うまでもないだろう。その労力は直接学ぶべき師のいない甲野先生の何十分、何百分の一だとしても、私たちもまた自身の体(感覚)で技を発見し、創り出す過程を歩まなくてはならない。そして技、少なくとも松聲館の技を「武術的身体」もしくは「武術的感覚」の運用法と捉えると、私たちの稽古の最初の目的は、まず「武術的感覚」を養い「武術的身体」を創りあげることでなくてはならない。これをひとまとめに[武術的身体感覚]と呼んだわけだが、[武術的身体感覚]は漠然としたものとしてあるわけではなく、甲野先生の技を支える感覚として具体的に私たちの前に提示されている。
私たち会員の稽古の多くは、一見「技」の稽古をしているように見えて、実はその「技」につながる[武術的身体感覚]を養っているのだと言える。これが(少なくとも武術稽古研究会における)いわゆる「型」稽古の意味だと思う。
●身体感覚的必然性
それでは「技」はどのように生まれてくるのか。一般の体育理論からすれば[武術的身体感覚]を元にその「使用法」を稽古することで「技に仕上げていく」と考えるのだろうが、松聲館の技の場合は必ずしもそうとは言い切れないものがある。
どういうことかというと、武術的身体感覚を追究していると意識よりも先に身体感覚が必要な動きを要請することがある。つまりあるシチュエ−ションにおいて「どうしてもこう動きたい、このように体が動きたがっている」という感覚である。このような動きを「身体感覚的必然性による動き」ということにする。
このように見ると松聲館の基本的な術理は甲野先生の[身体感覚的必然性]の結果発見されたものだと言えるのかもしれないが、特に〈一足立ち〉に注目するのはその誕生の過程が典型的な例だからである。
●〈一足立ち〉に見る[身体感覚的必然性]
それまでの甲野先生の技はその発見、あるいは展開以前に「このように動けそうだ」というような「予兆」のようなものがあったような気がする。ところが〈一足立ち〉は稽古の最中に「突如として」現れたという。これだけなら〈体内波〉発見の時も同様に見えるかもしれない。しかし〈体内波〉の場合も、その技そのものの予兆ではないものの、先生が「四方輪に飽きる」という伏線があった。しかし〈一足立ち〉の場合は「なぜか片足をあげたくなった」のである。
結果的に見ると、体の回りを否定した動きを追究する中で先生の身体感覚がより鋭くなってきたため、先生の体感が股関節によるわずかな回りを許さなかったのだといえる。しかも興味深いのは先生の意識がその体感に追いつくのにしばらく時間がかかったことである。このように意識以前に「身体感覚」が動きあるいは技をリ−ドすることがある。〈一足立ち〉のように典型的な形を採らないにしても、技を自分の内に発見する瞬間には自身の身体感覚に主導権があるということを松聲館の技法を稽古する者は考えてみる必要がある。
●「術理」と「技法」
では、松聲館の技のすべてが[身体感覚的必然性]の元に生まれてきたのか、というと「そうである」と同時に「そうではない」。というのは、技はその「誕生」と「展開」とではその性格が異なるからである。技はその「誕生」においては[身体感覚的必然性]に負うところが大きいのであり、「展開」時には意識的な創意工夫に負うところが大きいといえる。技の誕生は「術理の誕生」、展開は「術理の展開=技法の発展」と言い換えてもいいかもしれない。これは〈井げた崩し〉と〈四方輪〉の関係にもおおよそ当てはまる。〈井げた崩し〉はひとつの「術理」が誕生していく過程であり、〈四方輪〉はその術理を応用・展開した「技法」なのである。そのため「すべての技は身体感覚的必然性を元にして展開されてきた」といえるが、「すべての技が身体感覚的必然性によって生まれた」とはいえないのである。ただ、念のために言っておくが、人の体を使う技術の場合、純粋に身体感覚だけとか意識だけが関与するということはないだろう(*)。常に双方が絡みあっているのであって、その関与する割合を問題にしているのである。
ここで、稽古をする時に必要なのは次のふたつである。
1 武術的身体感覚に学ぶ態度
2 学ぶに足る武術的身体感覚を磨く稽古
このふたつは、意識せずとも武術稽古研究会の稽古を続けているとそうなるのだが、それを意識すると日常の動きを不用意には行えなくなるだろう。そして日常的な動きの中での武術的な発見・工夫が生まれてくるのである。
以上
(*)純粋な身体感覚的な技術というと整体協会の「活元運動」が思い浮かぶ。「活元運動」は体を動くに任せ、意識はそれを邪魔しないように客観性を保つわけだが、それとてもひとつの「理念」としてあるのであり、
実際には「活元運動」に対する「思い込み」などから全く開放されてその身体運動をするのは難しいだろう。