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【武術稽古法研究015】1995年4月19日

◎〈一足立ち〉の経緯に学ぶ

●〈一足立ち〉の経緯
 以前述べたように「ひとつの技、あるいは動きの原理は、典型的な動き(明らかに観て取れる動き)から、質的な転換を経て動きの中に吸収されて働きだすと、容易には取り出せなくなっていく(稽古法研究007)ために、その技の働きを押さえておかなくてはならない。特に〈一足立ち〉のように見かけからもその働きが見えにくいものは尚更であろう。
 この〈一足立ち〉も発展的に解消してしまったため、恵比寿稽古会に参加している会員の中には〈一足立ち〉そのものを知らない人がいるだろうが、それでも〈一足立ち〉について書こうとしているのは、先生がそれを発見してからの経緯に稽古をする者たちにとって重要なことが含まれているからである。
 〈一足立ち〉は先生も言われているように、稽古中に突然表れた動きであって、とにかく「一足立ちになると今まで以上に技が効く」という事実から始まった。3月12日の千代田での稽古の時には〈一足立ち〉は「二足立ちでは、重心が左右に行き来する『重心のお手玉現象』が起きるためどうしてもブレが生じてしまう、一足立ちでそのブレをなくすためにより技が効く」と説明されていた。しかしその〈一足立ち〉が効いたり効かなかったりすることがあったようだ。
 その後「二足立ちでは股関節の2点に微妙にねじれが生じて支点が残ってしまう、つまり体を回らないように使っているにもかかわらず、最後にわずかだが股関節部で体が回ってしまう、一足立ちはそれを解消する」と思い至ってからは〈一足立ち〉はきちんとその効果を発揮するようになったということである。もちろんこの「股関節による体の回り」は微妙なものであり、外から見て分かるようなものではない。そしてそのことは先生自身も意識していなかったのであり、〈一足立ち〉は、先生が「回さない動き」を追究していくなかで、先生の体内感覚の要請に応じて生み出された動きであった。
 この〈一足立ち〉が本来の場所に落ち着くまでの過程に、私たちが甲野先生の技を理解するためのいくつかのヒントがある。それはまた私たちが稽古をしていく上でのヒントでもある。それらを簡単にまとめると、

1 武術的身体感覚が技をリ−ドする
 これまでにも述べたように稽古にあたっては[全身調養力] の養成が大切である(稽古法研究002)。[全身調養力]
とは、自分の体の回っている部分を感じられる「観察力」、回っている部分をなくし全体の力を均等にしていく「調整力」、および人と相対したとき力を片寄らせないための〈筋肉のセンサ−化〉などを含んだ、武術的な認識力のことである。[全身調養力]
の養成によって「武術的身体」および「武術的感覚」を育てる事ができる。このふたつを合わせて[武術的身体感覚]と呼ぼう。
 [武術的身体感覚]が高まっていくと、その感覚のレベルに応じた身体の動きを促すようになるのではないか。松聲館の技の歴史は多かれ少なかれ甲野先生の[武術的身体感覚]がリ−ドして進んできたといえる。この「生まれてきてしまった動き」の原理的説明を「術理」というのであろう。

2 技の原理的説明の仕方で技の展開は変化する
 「生まれてきてしまった動き」という原初的技が技として有効であっても、それが有効である原理を見つけ出さなければその技は「勘・コツ」のレベルに留まってしまい個人を越えることは出来ない。私たちが技を学ぼうとするとき技の原理的説明である「術理」が必要となる。
 また、技の応用・展開は技の原初的形態の変化と見ることができる。この変化においても技が有効であるためには「術理」は技の本質を捉えていなくてはならない。〈一足立ち〉の「重心のお手玉現象の解消」という解釈からの経緯がこのことを教えてくれる。「重心のお手玉現象の解消」自体は〈一足立ち〉の重要な要素のひとつだっただろうが、本質ではなかったと言えるだろう。そのため「いつ・どのように」一足立ちを行うかで混乱が生じたのである。

3 技の原理を正しく捉えると技は内在化する
 技の原理を正しく捉えると応用・展開してもその効果を発揮することができる。しかもその原理的説明(=術理)が的確であればあるほど、技の原初的形態は姿を隠してしまう。
 技の原初的形態は技の原理を典型的に示す姿形を持っている。だからこそ、その姿形から技の原理を辿ることが可能となるのだ。しかし、一旦その原理を的確に捉えてしまうと、技は必ずしもその形態を採る必要がなくなってしまうのである。むしろ、その見かけから技が想像できないことが優れた技ということができるのだから当然のことといえる。このことは、これまでの甲野先生の技の展開にも当てはまるだろう。
 先生が〈一足立ち〉について、
 「これが両足のままで同じ効果が出せるようになれば、ずっと技が利きますよ。しかしそれはなかなか難しいでしょうね。」と言っていた時期は、おそらく〈一足立ち〉の原理がはっきりと掴めずにいた時期と重なっていると思う。そして一度その原理を掴むや、先生ご自身もあきれるほどあっさりと〈一足立ち〉は消えてしまったのである。と言うよりその技は原理として内在化し「一足」である必要がなくなってしまったのである。
 しかし、稽古をする側からすれば、こうなってからその技の原理に迫ることは非常に難しくなってしまう。それは〈井桁崩し〉から〈四方輪〉への展開の過程でも見られたことである。このことから、ある技の術理を表す典型的な姿形、すなわち「技の原初的形態」を「型」として残すことの意味を考えなくてはならないだろう。

 ところで、先生が技の原理を的確に捉え、それを「術理」として発表されたからといって、それによって容易に技に迫れるわけではない。私たちは稽古によって、私たち自身の[武術的身体感覚]と「武術的認識」で、あらためてその過程を辿ろうとしているのである。  以上


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