【武術稽古法研究012】1995年2月17日
◎〈肩の溶かし込み〉をめぐって
「〈体内波〉をどう捉え、どう稽古するか」(95/01/19)で、体内波の本質は「支点そのものの質的転換」である、とした。そして「これからはより有効に〈体内波〉を生かす型や技が開発されることだろう」と予測したのだが、その後の展開の〈肩の溶かし込み〉でその予測は微妙にはずれてしまったようだ。
あの段階では、先生の動きはもっと「なにげなく・無造作に」なっていき会員は稽古の手掛かりを失っていくのではないか、と考えていたのである。〈肩の溶かし込み〉は、先生自身、池袋コミュニティカレッジ(2/10)で「〈肩の溶かし込み〉以前の〈体内波〉の方が技としては効いたかもしれない」とおっしゃっていたように、〈体内波〉の初期の技は「破天荒」といった印象であり、技の効き方も「何が起きたか分からない」というものだった。〈肩の溶かし込み〉を通して示される〈体内波〉はより「内省的」な趣があり、会員としても落ち着いて技を吟味できる(ような気がする)。技の雰囲気はむしろ「井桁的」であり、先生としては珍しく一歩退いた形となった。もちろんこれは見かけ上の話であって、技が後戻りしたのではない。
〈肩の溶かし込み〉に続いて〈肩内の回転〉の技法のお話を電話で伺ったが、これらの〈体内波〉という大きな概念から生まれた個々の技法は、「より有効に〈体内波〉を生かす型や技」というより「より有効に〈体内波〉を追求する型や技」である観が強い。つまり、先生にとっても部分的に〈体内波〉が実現できたからといって、全ての支点を「雲状化」するのはそうたやすいことではないことを示している。逆にいえば部分的にせよ「雲状化」が自覚できれば技としてかなりなものとなる、ということなのだろう。
問題は、私たちが〈肩の溶かし込み〉を、〈体内波〉の自覚のための型として使えるのかどうか、ということである。
〈肩の溶かし込み〉の稽古は、先ほど「井桁的」であるといったように、私たちにとって「回さない・ねじらない」稽古のための型とも捉えることができる。特に「座りの正面の斬り」は、正中面を立てる・肘をヒンジにしない・腰のリクライニング・先端から動くなど、多くの要素を検討することができる型のように思える。稽古する会員それぞれの武術的体感の育ち具合に応じて、テ−マを設定しやすい利点があると思う(もちろんこの技が容易だという意味ではない)。支点そのものを質的転換するための前提条件としてのこれらの身体感覚を、個々に取り出して稽古するのではなく、型という「全体」の中でその要素にスポットを当てるように稽古できることが型稽古の意味であり、逆にそうした稽古を保証するのが優れた型というものだろう。
また、たとえ優れた型があったとしても、何も考えずにくり返していれば優れた技が身に付くとしたら、その「優れた技」のレベルはたかが知れている。この型に何を求めるのか、あるいは型に込められた意味は何か、を考えることから始まって、今この型で稽古しているテ−マの自覚など稽古に関わる主体性、あるいは精神性(思想性)が技を形作る大事な要素となる。もっともいかに優れていようが思想性だけでは武術の技にはならないが。(「基本の技、基本の稽古を考える」(94/12/16)参照)
まだ型に「定番」といったもののない武術稽古研究会であるからこそ、私たち稽古する者が主体性を持って、ひとつひとつの型の意味を吟味していく事が大切になる。〈体内波〉という、私たちにとっては漠然とした技法を、〈肩の溶かし込み〉というひとつの型(あるいは体勢)を手掛かりに、それを成り立たせている諸々の要素と〈体内波〉の感覚を探っていくことができるのではないかと考えている。
(*それにしても一ヵ月以内の出来事を何年も前の思い出のように書かねばならないとは!)
以上
012の補足(2004年4月)
「身体感覚を、個々に取り出して稽古するのではなく」と書いているが、2002年位から、必要な身体感覚に焦点が当てやすい稽古法を考えて行うようになった。ただしこれらは技の型を理解する上でのきっかけにすぎないので[補助的稽古]とか[稽古素材]とか呼んでいる。やはり技の型のなかで感覚を育てていくという考えには変わりない。