この文章は恵比寿稽古会参加者向けに発行している小冊子に掲載したものです。恵比寿稽古会とはどういうところか、恵比寿稽古会の稽古にどう臨めばいいかなどについて、世話役の中島章夫氏の考えが書かれています。
もちろんこれは参加者に強制されるものではありません。個々人の考え方で参加していただければいいのです。ただ、おおよその恵比寿稽古会の雰囲気を知っておいていただければ、面食らわないで済むこともあるでしょう。
武術稽古法研究No.151
「自主稽古会としての恵比寿」
2001/04/26 中島章夫
●「広き門」「狭き門」
恵比寿稽古会というのは、一応公開されており、甲野先生の講座などで案内を受け取るか、問い合わせて許可を得れば誰でも参加できることになっています。また、入会金や月謝もなく、参加のたびに一回分の会費を支払えばいいわけですから、拘束されることもありません。こう考えると非常に入門しやすい、「広き門」に思えます。
しかし実際参加されたみなさんにはお分かりかと思いますが、そうでもないのです。正確にいいますと、「稽古をはじめるのは『広き門』、稽古を続けるのは『狭き門』」なのかもしれません。
長く甲野先生の稽古に出ていると、当たり前のようになっていることも、はじめて稽古に参加する人たちにとっては戸惑うことが多いようです。これはおそらく恵比寿に限らないことで、先生を招いての稽古会ではどこでもそうではないかと思います(講座の場合はちょっと違いますが)。
まず第一に、いつまで待っても誰も技を教えてくれません。
甲野先生は技をかけて、説明はしてくれます。しかしそれはすぐに理解できるものではありません。それで「初心者集合」の声でもあるかと期待しても、なにも起こりません。みんな勝手に稽古をしています。それでボーっとして立ち尽くすことになります。中には甲野先生の技も受けずにボーっとしてしまう人もあるでしょう。
第二に、勇気をふるって稽古をしている人に声をかけて、仲間に入れてもらっても、ほとんどの場合、何から稽古をしたらよいのか教えてもらえることはありません。同じく技をかけられて説明はされるでしょうが、やはりなんだか分からないのです。本当は甲野先生の技よりはるかに単純なことをやっているのです。それでも初心者にとっては分かりにくいことに変わりありません。
そうして稽古が終わってしまうと、2種類の行動に分かれます。二度と稽古に来ないか、また来るかです(当たり前ですね)。
これを一言でいうと、甲野先生の技に興味を持てたかどうか、ということになります。 興味を持てなかった人の事情はさまざまでしょう。なんだかピンとこなかった、この程度の技なら、わざわざ稽古する必要がない、自分の想像していたものとは違った、などなど。理由はともかく、興味を持てなかったのだから、これはもうどうしようもありません。
中には、興味は持ったが、あの稽古法ではできるようにならないだろう、と稽古をあきらめる人もいるかもしれません。しかしそうした人の興味は、「同じような技で、稽古方法がしっかりしているところがあったら、そこに行こう」という程度で、甲野先生の技の「代えがきく」と考えているわけです。これはこれでひとつの考え方です。
一方、はじめての稽古で「おもしろい、やってみたい」と思う人がいます。その中身が「これはすごい」でも「不思議だ」でも「奇妙だ」でもいいのですが、ともかく興味を持って、もう一度稽古に来てみようという気になる人です。そいういった人にとって甲野先生の技は「代えがきかない」のです。それはその人が、ほかの武術家、武道家を知らないからで、見聞が広がれば「代えがきく」ようになるかもしれない。けれど、今のところは「代えがきかない」のです。目的はさまざまでしょうが、ともかくも他でもない「甲野先生の技」を習ってみようと考えたわけです。
最初の出会いが、甲野先生の技に興味を持つか持たないかの分水嶺となるわけです。これが月謝でも払っていれば、もう一回くらいは稽古するチャンスがあり、そこで印象が変わるかもしれないのですが、それは言ってもしかたないでしょう。甲野先生も恵比寿稽古会側も、稽古を気に入ってもらうための配慮もサービスもしないからです。つまり初参加者はその人たちのために準備された「初めての稽古」に出会うわけでなく、既に始まって継続している稽古環境に放り込まれるのです。
なぜ恵比寿稽古会はそうなのでしょうか。
●自主稽古会としての恵比寿
まず恵比寿の稽古会の成り立ちを考えてみましょう。
そもそも恵比寿稽古会は、それまで個々に甲野先生の武術を稽古していた松聲館の会員の有志が、都内で自主稽古ができる場を求めたことからはじまりました。ちょうどその頃、定期的に行っていた神田での公開稽古会が休止になったため、恵比寿を公開稽古の場としても使うことになりました。
はじめは自主稽古参加者と公開稽古参加者を区別して道場を使っていました。ところが甲野先生は区別せずに教えに回ってしまいますし、自主稽古参加者も初心者の相手をすることにもなりましたから、形としては甲野先生の都内の公開稽古会の場となっていきました。
しかし出発はあくまでも自主稽古会です。恵比寿稽古会は自主稽古会の性格が色濃く残っています。そのため継続して稽古をしている人たちは、それぞれのテーマに沿って勝手に稽古をしています。新しく来た人の相手をする役割の人がいないのはそのためです。
では新しく来た人や初心者はどうするのか。
もともと稽古に来た人は甲野先生の技はどんなものなのか、興味をもっているわけですから、それは甲野先生の技を体験するのが第一歩です。幸いなことに甲野先生はどんどん技をかけてくれますから、その人の興味に応じたリクエストをして技の感触を確かめるのがいいでしょう。
ところがここにもひとつ関門があります。だれもそうしたらいいと言ってくれないことです(私はなるべく声をかけるようにしていますが、必ずというわけではありません)。甲野先生もひたすら技をかけまくっていますが、特別新しい人に対してではなく、誰にでもかけるわけです。ですから遠慮がちな人は、甲野先生の技を受けることもなく時間がすぎてしまうことも起こってしまうのです。
大体、常識的に考えればはじめて訪ねた道場で、師範に技をリクエストするなどというのは度胸のいることです。はじめからそんなことができると思わないのが普通です。前もって講座に参加した人なら、その辺の雰囲気はわかると思いますが、それでも自分から技を要求していいものかどうか、逡巡するところでしょう。
だから不親切と言われればその通りです。しかし常連と思われる人たちは、自分の稽古に忙しいらしく、ボーっとしている初心者に声をかけてくれません。しかしそれが、ある意味で「武術稽古研究会」の稽古会の本質なのではないかと思います。恵比寿に限らず、仙台でも関西でも四国でも、もちろん松聲館においても同様でしょう。その時々の構成メンバーによっては声をかけてくれる人もいるかもしれません。それはたまたまです。
では、初心者が稽古をしている常連らしい人たちに、質問なり稽古なりを申し出ても冷たくされるでしょうか。
基本的にそういうことは、あまりありません。待っている人には不親切に見える人たちも、自ら求める人にはそれなりに向き合ってくれるでしょう。しかし、彼らはあくまでも技についての自らのテーマをもって稽古しています。初心のうち、ましてや初参加であれば「技」についてのテーマを持ち合わせてはいないでしょう。あっても「何から稽古をしたらいいでしょうか」「どう稽古をしたらいいでしょうか」ということでしょう。それに対する答えは「自分で考えなさい」ということになります。とは言ってもこれは原則的な話で、丁寧に答えてくれる人もいるでしょう。少なくとも私に聞いてくれれば、私なりの考えはお答えします。実は以下の内容がそうなのです。
●技を知る
本当に稽古の相手をしてもらうためには、「技」に対するテーマを持たなくてはなりません。それを稽古の相手に投げかけて共に考える。たとえ答えが得られなくても、それが相手にとっても稽古になります。相手のテーマを自分も考える。それが新たな気づきに結びつきます。だから、どんな小さなものでもテーマを持っていくことが、稽古相手への最低限の礼儀となります。
しかし「技」そのものを知らなければ、テーマも何もありません。まず技を知ることからはじめます。それにはどうするか。現在常連で稽古をしている人たちは、初心のころにどうしていたでしょうか。
やはり甲野先生の技を多く受けていたと思います。これは技を理解する必要はありません。体に感じさせればいい。ひとつの技だけではなく、さまざまな技を体験する。個々の技や型にこだわらず、漠然とした技の感覚を身に浴びるわけです。だから甲野先生にどんどん技を要求していいのです。それが先生の役割ですから、遠慮することはないのです(と私は思います)。
どのくらいそうしていればいいかは分かりません。少なくとも初日は先生にくっついて回り、自分が技を受けることはもちろんですが、人に技をかけているときの雰囲気をよく見ることが必要でしょう。
そう言われても、なかなか積極的に行動できない、という人もいるでしょう。今までも何回かの稽古は、稽古の様子を観察して、その後おずおずと稽古の輪に参加してきた人もいます。実はそれでもいいのです。というより、「稽古しないこと」も選べるのが恵比寿稽古会です。私個人としては、せめて先生の技を受けないと会費がもったいないなと思いますが、自分で決めていいわけです。身体が甲野先生の技をふっと納得するときが来て、稽古をはじめるということでしょうか。もっともその観察の結果、稽古に来なくなるという選択も、当然あります。
まあ、そういう感じの参加者もいるわけですが、一般的には先生の技をたくさん受けるということから稽古は始まると考えてください。技の感覚を味わってからの、「何から稽古をしたらいいでしょうか」「どう稽古をしたらいいでしょうか」という質問では稽古が成り立ちます。その技の感覚を再現するための稽古が始められるからです。
●育てる稽古、使い方の稽古
「技を受ける、その感覚を型により吟味する」を繰り返す、この段階を「武術的身体感覚を育てる」といいます。ここでは「出来る・出来ない」は問題になりません。このあとその感覚をどう使うか、という「武術的身体感覚を使い方」の稽古になります。このふたつの稽古は見かけ上変わりありませんから、稽古をしながら自分がどちらの稽古の段階にあるのか、たまに考えてみることが大事です。また相手がどちらの稽古をしているのかを考えてみることも大事です。そうでないと相手の技をどの程度受けたらいいか、邪魔していいかの度合いがわからず、ギクシャクした稽古になってしまいます。素直な気持ちで稽古をしていれば、この辺の呼吸は自然にわかるようになりますが、慢心のようなものがあると、稽古の意図が読み取れないことになります。
さて、「育てる」「使い方」の次にはなにが来るか。「武術的身体感覚を使う」稽古、と言いたいところですが、実はまた「育てる」なのです。「使い方」の稽古の間にも、身体感覚はどんどん拓かれていきますし、甲野先生の技の感触も進展していきますから、技を受けたときに身に浴びる感覚も変わってくるからです。だからこのサイクルは常連の人にも当然のように大切な稽古です。また「使う」稽古、いわゆる自由組み手のような稽古をしている人にも必要な稽古です。常にこのサイクルに戻ることで技は育っていくのです。
●自ら発見すること
恵比寿稽古会の稽古がこのように、一見とりとめのない感じで行われているのは、甲野先生の個性によるところが大きいと思います。それが先生自身がやってきた稽古法であるからです。混沌としているようでも、これはひとつのスタイルなのです。といっても固定されたものではありませんから、変化していくかもしれませんが、それでも決して「教えてくれる」稽古にはならないでしょう。
「自ら発見する」以外に技が身につくことはありません。教え上手は「自らの発見」を阻害するのです。これは言い過ぎでしょうか。それでも私はそう確信しています。そして発見の手がかり、素材がばら撒かれていること、それが稽古環境の条件です。そして恵比寿稽古会はそういう場です。恵比寿稽古会が本質的に自主稽古会であるというのは、そういう意味からです。だから稽古が進めば進むほど、自分の稽古法や技の解釈が出てきて、「その人の武術」という性格が強くなります。だから恵比寿稽古会では「会員」という言い方がしっくりこないのです。ましてや甲野先生の弟子とか松聲館の会員とかいうものでもありません。ただ一般的にはそう思われたり、言われたりするでしょうが、それはしかたがないことです。私自身も「恵比寿稽古会の会員」という言い方をすることもあります。でも最近は「稽古する人」とか「稽古者」とかいう言い方をすることが多いです。なにかしっくりしませんが。
ともかく稽古者としては、技や稽古法を待っていても与えられることはありません。もし仮に与えられることがあっても、身に付くものではありません。身に付けるためには自ら発見しに出かけなくてはなりません。そうして見つけたものは、たとえ小さくても本当に自分のものになります。それは必ずより大きな発見の礎になるでしょう。
以上