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【武術稽古法研究008】 1994年12月16日

◎基本の技、基本の稽古を考える

 普通、武術・武道の技は、基本技を基礎としてそこに変化・応用の技が積み重なっているようにいわれる。確かに構造的にはそうなのかもしれないが、実際には、基本技を包むように技は発展していくので、その元となった技は技が展開すればするほど見えにくくなってしまう。品物を包めば包むほどその形が分からなくなってしまうようなものだ。

 これはいうまでもなく甲野先生の技のことを言っているのだが、甲野先生の技を研究・稽古する私たちは、基本から稽古することができない。なぜなら先生は常に「最先端の研究成果」を私たちに示すからである。普通の感覚からいえば、これは特別に選ばれた高段者を対象に行われることだろう。

 基礎のできていない者に対してそんな高度な技を見せてもなんにもならない、というのが一般的な意見ではなかろうか。実際、最近稽古を始めたある会員は「稽古で先生の言われたことは、少しも理解できなかった」と言っていた。それはその人に限らず当然のことであって、先生の技に触れて間もない人が先端の動きの解説をされて分かるはずがないのである。

 「それならもっと基本から教えてくれればいいのに」と考えるのは初心の会員だけの気持ちだけでなく、苔の生えそうな古い会員にしても同様だろう。「基本から積み重ねる」のはあらゆる技術の習得の大原則だと私は考えているが、そこで考えておきたいのは「誰が・何を基本であると決めるのか」ということだ。

 「基本技」というのが重要なのは、「それなくしては技の応用展開はありえない」ということからではなく「それがその後の技を規定してしまう」からである。いくつかの武道において、天才的なその流派の創始者が技を体系化するに当たって、本人かそのブレ−ンかはともかく、見かけの上から基本技を設定してしまったために、基本技をしっかりやればやるほど創始者の技とは離れていってしまう、という悲喜劇を見ることになる。そして、「あの技は、あの方だからできた技だ」ということになってしまう。

 長い伝統のある流派では、歴史の中で切磋琢磨、創意工夫されすぐれた基本技の体系として受け継がれているものもあるだろうが、その延長が、例えばその創始者の伝説的なエピソ−ドに現れるような技に結びついているというものはどれほどあるのだろうか。基本技(基本の型といってもいい)は、そこに込められた体や意識の働きを知ること、知って育てることが大切なのだが、少なくとも松聲館においては初心の者が単に形をくり返してみても、その意味に至るのは至難のことだろう。まずは、技そのものを「漠然と知る」ことである。

 それはト−タルな技を経験すること(いつも言うように先生の技を繰り返し受けること)の中で、そうした武術的な感覚を知り、育てることが最初である。漠然としたものの中に引っかかるものが必ずでてきて、それが自分の稽古のテ−マとなる。その「引っかかり」を確かなものにするために何をしたらよいかは自ずから決まってくるだろう。いわゆる「自得」ということだ。とはいっても、それは自分一人でできることではなく、先生との稽古は当然のこととして、他の会員との相互稽古の中にさまざまなヒントが転がっている。一つの技へのアプロ−チにもさまざまな切り口があることもわかる。そういう意識が出来て初めて基本技を考えることができるようになるのだろう。つまりは「自ら基本技を見つけていく」のだといえる。

 このような流れの稽古法が、優れているとか最善のものだとか言うつもりは全くない。もっと直接技に向き合えるような基本稽古があるに越したことはないし、そういうものがやがて創られていくだろう。確かに新体道の「栄光」とか「天真五相」のようにシンプルな基本技は大変魅力がある。しかし今はまだ、松聲館の技を支えているところの武術感覚・武術意識を込めるような「基本の型」のようなものを創るのは大変むづかしいように思うのだ。

 以上

008の補足(2004年1月)
 2003年10月を以て武術稽古研究会は解散したが、結局はっきりとした基本稽古や、基本の型はできなかった。というより、甲野先生はそういうものを創る気がなかったのではないかと思われる。
 ではなんのための「稽古研究」会だったのか。
 結局、以前からも思い、現時点でも思うのは、稽古者に教えようとせず、自らの稽古を見せるというのが甲野先生の稽古であるということである。講習会のなかで甲野先生が行っているのは、先生自身の稽古そのものなのである。もちろんそのやり方が万人に当てはまるものではないだろうが、稽古者は稽古のやり方そのものを体験するのである。


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