【武術稽古法研究005】 1994年8月24日
◎[順の稽古・逆の稽古]
8/16付稽古法研究004「正中面を立てることで相手の芯を捉える」の中で、二人稽古での甲野先生との稽古と会員同士の稽古との違いに触れ、甲野先生の技を受けるときには、それに抵抗し、邪魔することが成り立つが、会員同士の場合、受け手は常に指導的立場でいなくてはならないことを書いた。ここではこのことを少し詳しく見てみたい。
甲野先生の技を受けるとき、その技に合わせることなくしのごうとすることは今に始まったことではなく、稽古会のごく初期からのことである。それは先生の技がその時期その時期のレベルで「出来た」からである。しかし先生は出来上がった技を会員に対して試みたというより、その試みの中で新しい発見をしてきたことは周知のことである。もちろん現在と比べたら対応しきれない場面は格段に多かったに違いない。それゆえに先生の技の発展があったわけである。その発展も、一人稽古はもちろんのこと、会員との二人稽古のなかで発見され試されつつ出来上がってきた技の積み重ねであったといえる。
つまり、先生の稽古の(少なくとも武術稽古研究会創設以来の)歴史はわれわれ会員同士の稽古とは異なり、常に先生に迎合することのない人たちとの稽古だったといえる。もちろんそれははじめから会員に「充分抵抗する」ことを先生が望んだからであり、会員の側も先生の技がうまく極まらないときも(内心ハラハラしながら)効いたような素振りは見せずしのぐのが役目と心得ていたからである。実際、井桁以前では講習会などの公の場で、今までにないしのぎ方をする人に出会って技がきれいに極まらずいつまでももつれたままでいる場面が見られることがあった。
一般には「技が極まらない」と見るであろうこんな場面も、会員の目には技の説明からいきなり先生自身の稽古に変わる瞬間と映るのである。そしてその問題をどう解決していくかを興味深く見てしまう。ほとんどの場合その場で「なぜその人には今までのままでは技がかからないのか、この人を崩すにはどうすればいいのか」の回答を見つけ出してしまうのだった。
さて、このような「相手の抵抗を前提とした稽古」を、甲野先生の著書に出てくる言葉「順縁の出会い、逆縁の出会い」を拝借して、[逆の稽古]と言おう。もちろん武術が「逆縁の出会い」である以上、稽古は最終的に[逆の稽古]として成立してこなくてはならない。その典型が「試合=技を自由に試し合う」である。その先にあるものが「実戦」あるいは「勝負=負けないことが勝ち」であるが、これは(個人的にはそのつもりの人がいるとしても)すでに「稽古」ではない。
試合が実戦でない以上「何でもあり」ということはなく、おのずから一定の限定条件(してはいけないこと)がある。その条件の多寡によって様々な試合形態があるわけだ。その条件をどんどん「多」のほうにシフトしていく、すなわち「してはいけないこと」を増やしていくと相手の抵抗は限られてくる。その典型はわれわれが行っている〈座りの斬り飛ばし〉や〈座りの柾目返し〉のときに、受けが力の来る方向だけに抵抗する形の稽古法であろう。つまり受けから攻撃を返したり、立ち上がって逃れたりするのはル−ル違反で「そのやり方では抵抗がありますよ」と知らせる程度の「抵抗」をするわけだ。
このような限定条件を多くした[逆の稽古]のとき、最小限の抵抗をするだけでなく、はじめに述べたような「指導的立場」で(実際に倒れるかどうかは別として)自分が倒れるように相手を誘導すると[順の稽古]となる。
この[順の稽古]をするためには少なくとも「自分の崩され方」を自身の体感で知っていなくてはならない。8月の自主稽古の際、斎藤豊さんが「稽古を始めてしばらくすると、自分の体のつかえているところは分からないのに人のは分かるようになっちゃうのがくやしい」と冗談交じりに話していたが、これは多くの人が体験していることだろう。
このことからも分かるように、[順の稽古]を成り立たせるためには先生との稽古が大前提となっている。つまり先生との稽古の第一段階は先生の技を数多く受けることであり、自分の崩される感覚を身に浸透させていくといえる。
このように書くと「松聲館ではやられる稽古をしているのか」と外野からの批判があるかもしれない。しかし先に述べたように先生との稽古は[逆の稽古]であり、ここでいう「崩される感覚」というのも、抵抗しているにもかかわらず崩されてしまう感覚のことである。決して先生のメンツを立てるために崩される稽古をするわけではない。また会員同士の稽古においても相手の(例えば先輩の)メンツのために崩れて見せても、その技が本当に極まっているのかどうかは当人が一番分かることである。
このように身に付けた「質の高い技で崩される感覚」をもとにして相手を誘導するのが[順の稽古]なのだが、崩されるために相手の姿勢なり力の方向なりを指示できても、その指示を体現するのはあくまでもその人自身であり、それには、自分の内部のどこがどうなって力がつかえているのか、どこをどうすればその力が流れるのか、などを内観する能力が要求される。そのいわば「内観力」というべきものが、稽古のどの場面で育つのかを考えてみる必要がある。その第一歩は(またしても)先生の技を受け、崩されたときの自分の内部の様子に気を凝らすことであり、また同時に先生の技が極まらなかったときの自分の内部の様子を意識することである。
また会員同士の[順の稽古]で技を行うときに、受けの態勢やこらえ方の特徴を見ることではなく、相手にこらえられたとき、自分の内部にだけ目をむけることである。相手からの指摘、例えば「肩がまわっている」「ひじがヒンジに動いている」などの部位に着目したり、自分で力のつかえていると思う部分を微調整してみるなどの稽古のなかで「内観力」は育つといえる。
「内観力」が少しでも育ってくると、自分の内部の感覚が、独立してあるのではなく相手との関係のなかで変化するものだということが分かるだろう。その相手との関係で今ある自分の内部を(外側である姿勢を含めて)どう整えていくのかが当面の稽古の目的となる。そのように考えると、先生が「この人のもち方だとこうしたほうがいい」とか「こういう耐え方をする人にはむしろこの方向で」とか言うのを聞いて、それぞれを個別の技だと捉yえてしまうと本質を見逃すことになる。
こうした先生の技のヴァリエ−ションは、おそらく相手の状況の子細な観察の結果ではなく、相手の状態が先生の内部に起こした変化を先生自身が「内部処理」した結果なのだと思う。このような内観による調整を「全身を調養する」というのであり、それができる能力を[全身調養力]と言ってよいだろう。
〈まとめ〉
二人稽古において、相手の技を成立させないように抵抗するのを[逆の稽古]、相手から技を引き出すように誘導するのを[順の稽古]ととりあえず名づけると、会員同士の稽古に当面必要なのは[順の稽古]である。
[順の稽古]によって何が育つのか(何を育てるのか)というと、自分の内部の状態を感じるための「内観力」と、それによって知り得た状態を技を出せるように調整するための[全身調養力]である。
それらの能力は技を仕掛ける方も受ける方もそれぞれに育つが、最初は受ける側の方が育ちやすい。その育つ基礎となる感覚は、先生との稽古によって培われる。
つまり「質の高い技を数多く受けること」が質の良い自主稽古の基礎といえる。
以上
〈付記〉
文中、断定的な表現が多いのは文を簡潔にするためであり、多くは中島個人の考えです。先生をはじめ会員の方々の別な見解もあると思います。いろいろ意見をお聞かせください。
004と005の補足 (2003年11月)
ここで書かれている受け手の役割は現在でも変わらない。抵抗や邪魔は取り手の状況に応じて加えていく。技にかからないための抵抗は技が使える場合の特殊な稽古である。今でも、甲野先生の技を受けるときと同じ受け方で参加者同士が稽古する場面が見受けられるが、無駄である以上に、感覚が雑になるばかりで害が多い。