【武術稽古法研究002】 1994年5月23日
◎「体を回さない稽古」で何が育つか
●稽古をする上での、大まかな着眼点は次の2点。
1 体を回さない(〈井桁崩し〉)
2 支点を作らない(〈四方輪〉〈二重輪〉〈多方輪〉)
私の考えでは、
1 体を回さないことで支点をつくらない
2 支点をロ−タリ−状に動かすことで消す
甲野先生の今のテ−マは2。しかし、稽古の順番は、どうしても1→2だ。
●「回さない(〈井桁崩し〉の)稽古」で何が育つか。
〈無拍子打ち〉が出た頃、先生がよく言われていたのは「体の濃淡を消す」ということだった。
相手に対して打ちにいくとき、普通に動くと体のどこかを支点にしてしまう。支点を作るということは、当然動きの始めと終わりに時間差ができてしまうため、相手に受ける間を与えることになる。しかしそれより重要な点は、支点にした部分に力が澱んでしまうことである。人はそうした力の淀みを気配として感じているらしい。支点による力の片寄りを、先生は「体に濃淡ができる」と言ったのである。
別の言い方をすると、支点を作って動くと、支点から先の部分が「働きすぎ」てしまうのである。
体全体の中に、よく働いている部分と怠けている部分が体の濃淡となって現れる。そのため力が入った部分、支点になった部分の力を抜いていく。単に力を抜くだけではなく、全体の力が均等になるようにするのである。それを先生は「全身を調養する」と言った。力が片寄らないように全身を調養していくことで支点を消していく。そして体に濃淡ができないようにして気配を消していく。この〈無拍子打ち〉が、体の中に支点そのものを作らない「井桁崩し」へと展開していったのではないかと思う。
このように考えると「回さない稽古」で育つものは次のようなものである。
「回さない稽古→支点を作らない→力の濃淡を作らない(全身の調養)→〈無拍子打ち〉的動き」
ご存じのように、先生が現在「〈無拍子打ち〉」をことさら強調しないのは〈無拍子打ち〉がすべての動きの前提になっているからである。このように先生の行っている最先端の動きを支えているものを、稽古する我々は常に考えておかなくてはならないだろう。それらが最先端の動きを追うことで結果的に身に付いてくるものなのか、個別に稽古をするべきなのか、ということも含めてである。
●全身調養力を育てる
回さない稽古は、まず、いかに自分の体が回っているかに気づくことから始まる。そしてそれを細部まで推し進めていくのである。このような観察力を高めていくことがまずひとつ。
その力に応じて感じた回っている部分(力の澱んでいる部分)の力の濃淡を均等に、全身を調養していくことがひとつ。
また、稽古はふたり稽古が基本となるために相手との接点(主に腕や手首)に力がこもってしまいやすい。もたれても力が抜けたままでいることで相手に情報を与えるのを防ぐと同時に相手の動きを読むことのできる筋肉になること(〈筋肉のセンサ−化〉)がひとつ。
以上、ざっと挙げた3点は、他の方法でも育てることができるものも含まれるが、回さないことを目的にすることで同時に育てることができるのではないかと思う。そのどれもが甲野先生の技を理解する上での基礎となるものばかりであり、これらができるようになっていくということは、全身の調養ができるということである。その力のことを[全身調養力]と私は勝手に呼んでいる。
以上
002の補足 (2003年11月)
[全身調養力]は今は使わないことばだ。今は同じ意味で「濃淡を消す」とか「全身を均等に使う」「力を均等にする」とか言っている。
この時期の甲野先生の本は『武術で知る心身不離の世界』(合気ニュ−ス)